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玉泉院丸庭園は、三代藩主前田利常が寛永11年(1634)に作庭を始め、廃藩時まで城内玉泉院丸に存在していた庭園です。この庭園は廃藩とともに廃絶され、かつての庭園の面影は失われていました。
古くは「西の丸」と呼ばれ、前田家の重臣屋敷があったと伝えられています。隠居して高岡に移った二代藩主前田利長が没した後、金沢に戻った正室の玉泉院(永姫)が屋敷を構えていたことから、玉泉院丸と称されるようになりました。
江戸末期の庭園は、二ノ丸を経た辰巳用水を利用した滝を水源の一つとする池泉回遊式の大名庭園で、池底から周囲の石垣最上段までの高低差が22メートルもある構造であったと考えられます。
石垣の中に滝を組み込んだ色紙短冊積石垣をはじめとした意匠性の高い石垣群が配され、それらが融合した優れた造形美をなしており、石垣を庭の構成要素とする立体的な造形は他に類を見ないもので、「石垣の博物館」と呼ばれる金沢城ならではの独創的な庭園であったと考えられます。
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