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桃山時代
妙法寺 金沢市寺町4丁目2-6
石川県立美術館保管 金沢市出羽町2-1
縦61.0センチ 横35.8センチ
県指定文化財 昭和62年1月14日指定
圓智院妙浄は、前田利家の弟良之の娘で、のち利家の養女となり、篠原出羽守一孝の婦人となった人の法号である。妙法寺の開基で、慶長3年(1598)8月晦日に没している。本像は、1枚の紙に、斜め右を向き、打掛けをつけ、右手に団扇を持ち上畳に坐る姿を描く。夫人の背後左右に鏡台と冊子を卓の上に置いて配し、前方に万頭、三方の上に柘榴・栗・柿などを盛り、水瓶と盃をそえ、また経机に数珠と法華経8巻を置く。顔は色白で眉をおとし、額に濃墨のつくり眉を描き、目はやさしく美しい切長にあらわし、形のよい小さな唇に朱をさす。髪は長い垂髪で濃墨を塗り、頭頂中央を掘塗りで左右に分けるが左肩にかかった髪はうねりのある美しい曲線を描き表現される。打掛は草花の刺繍と四つ菱・雲・亀甲・山形文などを朱地に金の摺箔をほどこしたきわめて豪華な縫箔である。
画面上部中央に 『南無妙法蓮華経』 の御題目、向かって右側に
『慶長第三天戊戌歴/仲穐(秋)下澣(旬)晦日/圓智院妙浄尊霊尼』
の墨書があり、本像は慶長3年(1598)に没した夫人の追慕像であることがわかる。表具も貴重であり、慶長期の刺繍裂と辻ヶ花染を用い、また本像は我が国における桃山肖像画の一級品として貴重である。附の妙法蓮華経8巻は、室町時代の作品で、画像の正面に描かれている経巻はこれを写したものと思われる。また、経巻を納める経箱は、桃山時代の作品で寺伝では、いずれも画像の主、圓智院妙浄の遺品と称しているものである。
江戸時代
永福寺 金沢市東兼六町18-8
石川県立美術館保管 金沢市出羽町2-1
(永福像)縦82.2センチ 横39.9センチ
(夫人像)縦84.2センチ 横39.0センチ
県指定文化財 昭和62年1月14日指定
奥村永福(1541~1624)は、加賀藩老臣奥村氏の家祖で、前田利春、利長、利家に仕え、天正11年(1583)の末森の戦に功をたて、慶長4年(1599)剃髪して快心と号し、寛永元年6月12日に84歳で没した。法号を永福院殿快心宗活居士という。夫人は名を安、尾張の加藤与三郎の娘で、末森の戦に勇名をとどろかせたことで知られる。寛永4年(1627)2月22日没。法号を松寿院殿心窓永安大姉という。永福像は、1枚の紙に、斜め右を向き、黒染の法衣に絡子をつけた法体姿で、右手に扇子、左手に数珠を持ち、上畳に坐る姿を描く。向かって右側に太刀を立てかけ、左背後に水墨の竹図を描いている。画面上部は、御簾と斗張を配し、それらにつけられた紐が左右に下る。顔は剃髪後の晩年の面貌をよくあらわし、黄褐色を塗り、額やこけた頬に肥痩の目立たぬ描線で多くの皺を刻む。夫人像は、1枚の紙に、斜め左を向き、扇面散らしの華麗な小袖を着て絡子をつけ、頭巾をかぶった法体姿で、右手に数珠をかけ、両手を組んで、上畳に坐る姿を描く。向かって左背後に水墨の竹図を描き画面上部途中から御殿軒先に御簾と斗張を配している。顔は永福像と同様晩年の面貌で温和な表情をうかべ、白いろを塗り、肥痩の目立たぬ柔軟な墨線で描かれている。両像とも装飾的に描かれ、桃山時代の気分が残る秀作で、制作年代は江戸時代初期の寛永年間は下らないと思われる。
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