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室町時代
大乗寺 金沢市長坂町ルー10
(石川県立美術館保管 金沢市出羽町2-1)
縦 86.8センチ 横 35.9センチ
県指定文化財 昭和44年2月18日指定
徹通義介(1219~1309)は、鎌倉末期の曹洞宗の禅僧で、越前足羽郡に生まれた。覚禅懐鑑について出家し、延暦寺で修業中に、深草興聖寺の道元に謁し、道元が越前永平寺を創めるのに従って入山した。道元の没後は、弧雲懐弉に師事し、正元元年(1259)に入宋した。帰国ののち、文永4年(1267)に、懐弉のあとをうけて永平寺三世となったが、同9年(1272)に法弟義演一派と法義の対立が生じ、瑩山紹瑾らを伴って永平寺を離れた。正応2年(1289)に富樫氏支援を得て、加賀の野市の大乗寺を禅寺とし、その開山となった。本像は、徳治元年(1306)正月、徹通が三世明峰素哲に与えた自賛像を、永享6年(1434)8月に明峰の法孫菊堂祖英が写したものである。原本が伝わらない今日、写しではあるが大変に貴重な作品であり、大乗寺の重宝となっている。画面の彩色が剥落していて惜しいが、いわゆる頂相形式で、被のない曲ろくに座した枯淡な構図である。権門を極度に嫌った気風をよく伝えている。
昭和60年「石川の文化財」より
室町時代
大乗寺 金沢市長坂町ルー10
(石川県立美術館保管 金沢市出羽町2-1)
縦 85.7センチ 横 39.3センチ
県指定文化財 昭和44年2月18日指定
明峯素哲(1277~1350)は、加賀国の富樫氏の出身と伝えられる曹洞宗の禅僧で、初め延暦寺に修学、次いで大乗寺二世瑩山紹瑾(1268~1325)に師事し、のち東西に遊歴して禅を修め、正中2年(1325)に永光寺二世となり、翌年氷見の光禅寺を創建、建武2年(1335)に大乗寺三世となる。明峯は、幾多の俊英を育て、その法嗣は26人に及び、その門下は、「永光寺十二門派」と称された。本像は、そのように多くの法嗣にしたわれた禅師の人柄をよくあらわし、円満で、慈眼にみちた顔貌を的確に描いている。袈裟の金襴や、被の雲に鳳凰丸紋など、華やかな模様で装飾的な雰囲気の頂相である。南宋から渡って来た厳しい姿の頂相から完全に脱却した日本的な表現である。裏面に、慶長4年(1599)の補修銘があることから、おそらく室町中期頃に描かれたものであろう。
昭和60年「石川の文化財」より
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