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鎌倉時代
康楽寺 金沢市湯涌町
縦95センチ 横46センチ
県指定文化財 昭和45年11月25日指定
観世音菩薩は、阿弥陀如来の脇侍であったが、「観音経」では独立した菩薩としてあらわれ、現実世界においてあらゆる苦しみに遭遇した時に、菩薩の名を唱えるだけで、種々の姿に変化し、即座に救ってくれる仏として、後世、三十三観音、あるいは日本西国33カ所めぐりを行うなど、一般に大変信仰のあつい仏である。魚籃観音は、三十三観音の1つで、手に魚の入った籠を提げているので、この名称がある。その成立は、唐の憲宗の時代に、魚商をしていた美女が、「法華経」普門品、「金剛経」をよく読誦する人に嫁したいと願い、ついに馬氏の婦人になった、という故事に基づくとされ、その美女が、実は観音の化現と説かれたことから、宋代以降、観音の変化身としての魚籃観音信仰が、中国で深まったが、作例の少ない仏画である。本図は、中国服に魚籃を提げた化現の姿を画面に大きく描き、両脇の侍者である僧を小さく描いている。構図・筆法などから宋元画とも考えられるが、おそらくは日本で描かれたものであろう。
鎌倉時代
西念寺 七尾市小島町1-リ-3
(石川県七尾美術館保管 七尾市小丸山台1-1)
縦 107.5センチ 横 54.2センチ
県指定文化財 昭和45年11月25日指定
平安時代後期から鎌倉時代にかけて、浄土信仰の隆盛にともない浄土教絵画が多く描かれるようになる。とりわけ阿弥陀浄土への往生を願う阿弥陀信仰が主流を占め、阿弥陀如来が西方浄土から往者を迎えにくる姿を描いた阿弥陀来迎図が多く描かれた。鎌倉時代には、さまざまな阿弥陀来迎図のうち三尊形式の来迎図が最も多く描かれるようになる。この作品は、三尊形式の来迎図で、左上から右下へと阿弥陀三尊が来迎してくる図様である。中尊阿弥陀如来は、中央の蓮台に立ち、大きく描かれ、少し斜め下方に視線を向けた面差しは荘厳な趣きを見せ、脇侍のうち、先導の観音菩薩は、両手で往者をのせる蓮台を挙げ、勢至菩薩は、合掌して往者を迎えている。脇侍のやや前方に身をかがめた姿勢は、三尊が乗る雲の流れとともに、本図に動きを与えている。三尊の描線は、流麗で格調があり、衣文や光背に施された截金技法は力強く、鎌倉時代の特徴をよくあらわしている。雲の胡粉彩色はほとんど剥落しているが、三尊の顔の部分は保存が良好で、鎌倉時代の三尊来迎図としてすぐれた作品である。
昭和60年「石川の文化財」より
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