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江戸時代
個人 金沢市
縦 154.5センチ 左右360.0センチ
県指定文化財 昭和44年2月18日指定
筆者の狩野尚信(1607~1650)は、江戸初期の狩野派の大画家探幽の弟である。兄探幽が、江戸へ出て幕府の奥絵師となったため、狩野宗家の跡を継いだが、のち江戸へ出て、やはり幕府の奥絵師となり、木挽町狩野を興した。兄とともに障屏画を多く描いたと伝える。晩年、出家して自適斎と号した。6曲1双を通して水面を横に配し、両端に柳と岩組を描き、上部に金雲を置き、遠景の山々を展望する宏大な構成である。右隻は、芽を吹いた柳に、水ぬるむ水面に遊ぶ白鷺を描いて春をあらわし、左隻は、葉の落ちた柳に雪が積もり、白鷺が止まり、冬を表現している。1双の中に季節の移り変わりを濃彩で装飾的に描いている。柳と岩を彩る緑青、水面の群青に、白鷺と雪をあらわす胡粉の白は映え、金地とよく調和して金碧障屏画の効果を一段と高め、また狩野派特有の力強い描線は濃彩の色調と調和するように装飾的に表現し、情緒ある画格の高い作品に仕上げている。自適斎と落款があり、尚信晩年の代表作といえよう。
昭和60年「石川の文化財」より
江戸時代中期
石川県立美術館 金沢市出羽町2-1
左右 356.0センチ 縦 155.0センチ
県指定文化財 昭和44年2月18日指定
岸駒は、寛延2年(1749)に越中国(1説に金沢)に生まれ、養父は金沢の佐伯九兵衛という。本姓は佐伯氏であったが、岸氏に改め、名を駒と称したので、一般には、岸駒の音読が通用している。定まった師はないが、金沢在住のころ矢田四如軒に学んだといわれ、のち京都に出て、沈南蘋や円山・四条派を学んで折衷的な画風を確立している。松村呉春が近景を描き、岸駒が遠景を描いた合作の山水図も遺っている。有栖川宮の侍臣となり、越前守に任じられ、天保9年(1838)に没している。多くの門弟を集めて当時の画壇の中心であった円山・四条派に対抗する力量を持ち、この一派を岸派と呼んでいる。文化5年(1808)に、金沢城が大火に遭うが、翌年の修復工事に参画して、殿中の襖絵を一門で描いている。本図は、金地に得意の猛虎を描いている。左隻には岩間にうずくまる虎を、右隻には飛びかかろうとして宙を飛んでいる虎を、つけたて技法により、筆力鮮やかに、装飾的に描いている。岸駒の覇気ある鋭い筆法がよく表われた作品である。
昭和60年「石川の文化財」より
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