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正応5年(1292)
輪島市中段町
県指定史跡 昭和14年3月18日指定
この板碑は秩父の緑泥片岩を材として、高さ129cm、上幅32cm、下幅35cm、厚さ3cmで、形式は、頭部を二等辺三角形とし、その下に二条の線を刻む。碑面の上方に阿弥陀三尊の種子(しゅじ(読尊を一字で現す梵字)を「キリーク(阿弥陀)」・「サ(観音)」・「サク(勢至)」の三尊を定型に配し、各尊に優雅な蓮華座を添え、その下方に正応5年(1292)の紀年が刻まれている。
この阿弥陀三尊板碑は、種子や蓮華座の彫刻技法、それに石材や形状などからみて、鎌倉後期に関東地方に盛行した典型的な武蔵型板碑の条件を具備していることから、能登に彫成されたものではない。
しかし、この板碑の所在する付近は、釈迦堂と呼ぶ中世の寺院跡と伝承されており、『能登国公田田数目録』に見える大屋庄にあたるところである。地頭長谷部氏の入国に引きつづいて、武士や僧侶の往来も頻繁であったろうから、この板碑は、関東で製作させて、この地に移入し、供養碑として生命を保ってきたものと思われる。
昭和60年「石川県の文化財」より
金沢市額谷町
県指定史跡 昭和14年5月10日指定
高尾城跡の南麓、七瀬川の谷頭の金沢市額谷町にある御廟谷は、加賀の守護富樫氏の累代の墓所といわれる。地形は四段に分かれ、上段の「寺屋敷」と呼ばれる位置には、石塊が散在し、その下段には五輪塔一基を中心とする石塔がみられる。「寺屋敷」は富樫氏の一族の居館跡とも、家臣金子氏の居館跡とも伝え、伝承そのものも必ずしも一致しない。
また、中世の墓地についても富樫氏累代の墓所とすべき確証はないが、このあたり、額谷町から大額町、高尾町一帯が、野々市に守護所をもつ富樫氏の根拠地であり、一族や家臣の分布地であったことは疑いない。
昭和60年「石川県の文化財」より
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