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七尾市三引町
県指定史跡 平成3年10月4日指定
七尾市三引に所在する赤蔵山は、古来より神の鎮まる霊山として敬われてきた信仰の山である。
縁起および近世の由緒書によれば、天平2年(730)、聖武天皇の皇太子が眼病を患った際、大和多武峯の法師を赤蔵山に遣わし、祈願したところ、眼病が癒えたため諸堂を建立し五里の地を社領としたといい、往時は社僧120坊を数え、勢威を誇ったが、天正の兵乱で社堂ことごとく焼失したと伝えている。
また、中世には赤蔵大権現を称し、その別当の赤蔵寺は、南北朝の戦乱期には足利尊氏党の能登の前守護吉見氏頼に与みし、足利直義党の越中の桃井軍と戦ったことが古文書に見える。近世に入ると、赤蔵山は鹿島半郡領主長連頼によって再興され、上一本宮と称し、長氏の祈願所となった。
スギ、モミなどの巨木がうっそうと茂った山内には、赤倉神社の本殿、元講堂であった拝殿、仁王門をはじめ、白山社跡、神明社跡、塔屋敷跡などのかつての建物遺構や石畳の参道、近年、国の名水百選に選ばれた御手洗池が残り、山麓の裏参道の両側には現存する栄春院、怡岩院をはじめとする寺坊跡群が連なり、亀山と呼ばれる小丘には天神党と釣鐘堂が建っている。
このように赤蔵山は、かつての神仏習合時の姿を色濃く残しており、33年ごとの赤蔵山大開帳行事にみられるごとく、今もその信仰が強く地域に息づき、地元民により大切に護持されてきた霊山である。
明治の神仏分離以降、多くの霊山がその本来の姿を失った中で、当時の名残をとどめる県下では唯一の霊山であり、中能登における民間信仰の形態を残す史跡として重要である。
羽咋郡宝達志水町字南吉田末森村・元末森村麦生
県指定史跡 平成3年10月4日指定
末森城跡は、旧押水町の北部、末森山(標高138.8m)に所在する中世から近世初期の山城跡である。
この城は、加賀・能登・越中三ヶ国の国境に近い要衝に位置するため、しばしば合戦の舞台となり、軍事史上特筆すべき城として著名である。
特に末森城の名を有名にしたのは、前田利家と越中の佐々成政の間で行なわれた天正12年(1584)の「末森合戦」で、加賀百万石があるのは、この戦いで勝利したことによるとされている。
確かな築城年代は不明であるが、『長家系譜』によると天文19年(1550)には、城堡が設けられており、その城主は畠山義統の家臣土肥但馬と伝える。また、天正5年(1577)には能登をほぼ制圧した上杉謙信が加賀攻略の基地として使用し、さらに天正11年(1583)に前田氏の所有するところとなり、本格的な城郭として整備され、城主として奥村永福が置かれている。
第2次世界大戦まで城跡が国の保安林として乱伐禁止の規制を受けていたため、一部破損しているものの遺構の遺存状態は極めて良好で、城絵図も多く残されている。
また、昭和60年度から4ヶ年にわたり実施された詳細な分布調査により、本丸に通ずる各尾根に連郭式の曲輪を設けた長期居城を目的とした県内屈指の山城であることが判明し、地形実測図が作成されている。
このように、末森城跡は県内の戦国期を代表する山城であり、本県の近世史の幕開けを記念する史跡としてその歴史的価値は極めて高い。
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