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延宝6年(1678)
豊国神社 金沢市東御影町94
(石川県立美術館保管 金沢市出羽町2-1)
長さ81.5センチ 身幅3.1センチ 反り3.3センチ
県指定文化財 昭和53年3月7日指定
この刀は、安藤対馬守藤原重治が、延宝6年(1678)に、辻村清平に命じて鍛作させ、武運長久を祈念して石清水八幡宮に奉納したものであるが、豊国神社の社宝になった経緯は明らかでない。辻村清平は、加賀で活躍した初代兼若の四男で、慶安末年(1651)に江戸に転住し、同地の刀鍛冶と交友して、兼若伝に江戸の新風を加えた清平独特の作風を工夫したことで有名である。この刀は、その鍛法がよく表現され、清平の代表作の1つに数えられるものである。形状は、鎬造、庵棟、重ね厚く、反りが高い。中鋒は少々伸びている。鍛は、小板目肌よく錬れ、地沸がつき美しい。刃文は、のたれに小互の目で尖り刃を交じえた小沸ができ、足入り、刃縁は冴えている。帽子は、中丸で返りは短い。茎は、生ぶ、先が粟尻で刃は上り気味、目釘孔が2個あり、鑢目は勝手下りとなっている。
昭和60年「石川の文化財」より
江戸時代前期~中期 3代辻村兼若作
石川県立美術館 金沢市出羽町2-1
長さ72.0センチ 身幅3.2センチ
県指定文化財 昭和53年3月7日指定
この刀は、作柄がすばらしく、3代兼若の代表作で、かつて画聖岸駒が所持したことが知られる。3代兼若は、名を四郎右衛門といい、2代又助兼若の長男である。活躍した時期は、現存する作品によれば、延宝5年(1677)から正徳元年(1711)の間であるが、2代又助兼若の代作、代銘などをしており、延宝以前の寛文年間(1661~1673)における両者の区別は困難である。この刀の形状は、鎬造、庵棟、身幅広く、重ねが厚くしっかりした姿、中鋒である。鍛は板目肌でよく錬れ、地沸が強くつき健全である。刃文は、特有の箱乱れ、沸・匂深く、太い足・葉しきりに入り刃中華やかである。帽子は、真ぐ、尖って少々返る。茎は、生ぶ、先が栗尻で、目釘孔が1個あり、鑢目は勝手下りである。銘は、表の棟寄りに5字、裏に画聖岸駒の識す銘「霊護 寛政庚申仲冬十七 支禦危難子孫宝焉 雅楽助岸駒識」が切られている。
昭和60年「石川の文化財」より
元和7年(1621)初代辻村兼若作
石川県立美術館 金沢市出羽町2-1
長さ74.5センチ 身幅3.0センチ
県指定文化財 昭和53年3月7日指定
この刀は、形状や鍛・刃文・彫物などが、重要美術品で慶長年紀銘のある初代兼若の作品に酷似し、初代辻村甚六兼若・高平同人説を証明する資料として、また初代兼若の晩年作としてきわめて貴重なものである。初代兼若は、本来の単調な関伝より転じて、変化の多い華やかな相州伝や、また華麗な備前風の逆丁子乱れまでも考案し、世人の好尚に応じた。そして江戸時代初期の元和7年(1621)に越中守高平となり、「加賀正宗」の世評を受け、名声がいよいよ高まり、他工も初代兼若の作風に同調した。したがって加賀新刀は初代兼若によって完成したものということができる。現存する作品から、その活躍した時期は、慶長12年(1607)から寛永5年(1628)までである。この刀の形状は、鎬造、庵棟、身幅は元先の差が少なく、中鋒伸び心である。鍛は、板目に柾を交じえ、地沸が1面に見事につき美しい。刃文は、矢筈交じりの互の目で尖り刃、沸・匂深く、足が入り、刀縁冴え、刃中掻きかけ気味である。帽子は、小丸で上品であり匂飛ぶ。彫物は、表裏2本の樋を中心に掻き流す。茎は、生ぶ、先が栗尻浅く、鑢目は勝手下りで、目釘孔が1個ある。銘は「越中守藤原高平(花押)元和七年十二月 日」とある。
昭和60年「石川の文化財」より
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