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更新日:2024年6月24日

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その他の事業(5年度)

事業概要

令和5年度は、金沢城公園整備事業(県公園緑地課所管)に係る丸の内園地石垣保全に係る確認調査、二ノ丸御殿確認調査を行ったほか、石垣現況測量を実施した。
丸の内園地石垣については、二ノ丸御殿については、御殿復元根拠となる情報の取得や、遺構の確実な保存を測るため、発掘調査を行った。
石垣現況測量については、東ノ丸東面上段石垣(1130E、1121S)、水ノ手門明番所下石垣(1250N・E・S)の三次元計測を実施した。また、変形が顕著な石垣について変形動態を把握するため、過年度までに取得した三次元データを用いて、差分比較を実施した。今年度は蓮池堀縁(車橋門)石垣(1901E)と数寄屋門下堀縁石垣(6420W)の計測データを対象とし経年変化量の把握を行った。

丸の内園地石垣保全に伴う確認調査

事業概要

近年顕著に変形が進行している丸の内園地石垣の保全工事に係り、上面遺構調査の結果を踏まえ、適切に遺構保存を図りながら石垣解体調査を実施し、石垣の構築技術に関する情報や、変形の要因、石垣の来歴に関する痕跡等についての確認、記録を行った。
調査期間:令和5年6月8日~11月15日(石材カルテ作成 4月14日~5月16日)
調査面積:120平方メートル
現地指導:令和5年10月26・31日、11月9日(金沢城調査研究委員会、金沢城調査研究専門委員会)

調査の成果

  • 昨年度(1~3段、195石)に引き続き、4~8段(235石)の解体調査を実施した。また、昨年度解体した石材の石材カルテを作成した。
    最も変形が顕著な箇所では、築石の背面がやや急角度になるような箇所が認められる。また、築石と裏込めの間に隙間があり、変形が大きくなるにつれて隙間も大きくなっていた。これは、築石と裏込めが連動して変形したというよりは、築石が単体で動いた結果、隙間ができ、変形が生じたものと考えられる。
  • 調査では、石積みや裏込めの様相ごとにA~E類に分類した。8段目では、A類の掘方に切られるそれ以前の裏込め層を確認した。土と栗石の間に厚さ10センチメートル前後の砂利層が認められ、栗石に土が混じらないようにすることで目詰まりを防ぐ、背面の地山から伝ってくる水を排水するな
    どの目的が考えられるが、今後の検討課題である。
  • E類では、築石背後に大ぶりの石を配置する特徴があり、特に6段目と7段目で多く確認できた。

二ノ丸御殿確認調査

調査の概要

近世前期以降、金沢城の中枢部で、明治14年(1881)に焼失するまで存在していた二ノ丸御殿について、遺構の位置や内容等を確認し、復元整備の根拠となる情報を取得するとともに、御殿の構造・変遷についての知見を得る。
調査期間:令和5年6月1日~11月30日
調査面積:2,100平方メートル
現地指導:令和5年10月26・31、11月9日(金沢城調査研究専門委員会委員)
                 11月8日(金沢城二の丸御殿復元整備専門委員会委員)

調査の成果

 

  • 唐門、玄関、実検ノ間、坊主溜周辺を対象に遺構の精査を実施し、唐門の基礎遺構、玄関脇の枡(水溜)等について、位置や形状・構造等を確認した。
  • 唐門は、明治3年(1870)に卯辰山招魂社に礎石を含めて移築され、その後、昭和38年(1963)に尾山神社に移転し、東神門として現存している。
  • 今回の調査では、明治3年まで建っていた唐門の西側本柱・控柱の基礎(東側は大学共同溝により削平)、付随する掛塀(門両脇から御殿建物及び五十間長屋下折曲部石垣に取りつく)の基礎を検出し、唐門の位置を特定した。
  • 本柱については、礎石抜取穴(礎石は移転先に遺存)・礎石根固めを確認した。礎石根固めは長辺約1.9メートルを測る。※ 礎石は坪野石(溶結凝灰岩)製で平面八角形を呈する。
  • 控柱は掘立の構造であり、抜取穴の形状・規模から約30センチメートル四方の柱と推定でき、柱穴下部(文化御殿面から約1メートル下)に戸室石の根固めが認められる。また、掘方は釉薬瓦を顕著に含み、御殿玄関脇の枡の掘方の構造と類似する。※ 現存する移築後の唐門の控柱は礎石を伴っている。
  • 掛塀については、西側(御殿側)では基礎とみられる延石、東側では五十間長屋石垣への基礎取付加工痕を確認した。これらから唐門及び掛塀は、御殿の軸に対し斜交していたことが明確となった。
  • 玄関の両脇で、平面六角形の枡(水溜)を確認した。金沢大学図書館建設により枡の上部は失われていたが、最下段(一部上段部の残欠がみられる)が遺存していた。石材は越前笏谷石の板石材が用いられている。
  • 枡の深さは、文化再建御殿の面から底石上面まで約1.3メートルを測り、板石の規格から三段構成であったと考えられる。
  • 枡内部は、土砂や3センチメートル程度の玉砂利で埋められており、銅瓦、板材等の建築部材、火鉢・碗等の土器・陶磁器類やガラス製品が出土している。
  • 廃絶時期は、出土遺物の様相から明治初期以降で、明治14年の火災より前と考えられる。
  • 実検ノ間東側で略円形の土坑4基を確認した。「二之丸御殿建物指図」に描かれる便所の位置と整合する。そのうち1基の便槽には、据え置かれた桶の残欠が認められた。
  • 土坑内部は、川原石・釉薬瓦・陶磁器等を入れているもの、多量の砂で埋めているものがみられた。前者には炭粒や焼土が認められず、明治14年(1881)火災より前に廃絶したと考えられる。後者は炭粒や焼土を含み、火災以後に廃絶したと考えられる。
  • 番所は1間×1間(絵図によっては1間×2間)の建物であり、柱痕跡は西柱列(北西隅と南西隅)で確認した。小穴は直径48センチメートル、深さ10センチメートル程度と浅く、埋土の観察から礎石抜取穴と考えられる。東柱列は、金沢大学共同溝設置等により削平されている。
  • 塀(熨斗立)は、絵図によると坊主溜北東隅から北に約10メートル延長し、西に折れて実検ノ間に取り付く。調査では、延長(検出範囲)4.1メートル分、幅54センチメートルの溝状遺構を確認した。塀の基礎部に該当すると考えられる。
  • 坊主溜東辺~北辺の礎石根固め4箇所について、大型石材埋設タイプ1基と川原石充填タイプ3基を確認した。大型石材埋設タイプは北東隅の柱の基礎に相当する。礎石は抜取られて遺存していないが、整形した切石材の礎石が置かれたと考えられる。

二ノ丸調査区等配置図

遺構の位置と絵図

<- 令和4年度の成果

 

お問い合わせ

所属課:教育委員会金沢城調査研究所 

石川県金沢市尾山町10-5

電話番号:076-223-9696

ファクス番号:076-223-9697

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