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近年顕著に変形が進行している丸の内園地石垣(数寄屋屋敷西堀縁石垣)保全工事に先立ち、石垣背後の斜面等の現状を記録し、適切な遺構保存を図る上で必要な情報を取得するため、1.現況地形の詳細測量(三次元計測)、2.斜面のボーリング調査、3.斜面裾から石垣上面にかけてのトレンチ調査を実施した。
調査にあたっては、金沢城調査研究埋蔵文化財専門委員会委員及び伝統技術(石垣)専門委員会委員の指導を受けた。
調査期間:令和2年5月26日~12月18日
調査面積:1,800平方メートル(トレンチ60平方メートル)
現地指導:令和2年11月19日
発掘調査に先立ち、1.詳細地形測量(現地作業:5月26日~8月7日)を実施し、斜面部の微地形や石積み等を記録化した。また2.地質ボーリング調査(現地作業:7月1日~8月11日)を実施し、過年度ボーリング調査成果と合わせて、旧地形の把握や斜面造成等の範囲・内容を確認し、斜面の保全工事の詳細設計に役立てることとした。
3.発掘調査(現地作業:8月18日~12月18日)では、トレンチ調査(4ヵ所)を実施し、数寄屋屋敷西堀縁石垣の昭和53年修理に伴う裏込層の範囲を確認した。裏込層は円礫を主体とし、幅は石面から約2mである。また同裏込層の背面で近代の石垣修理に伴う裏込層や江戸後期の整地土を確認した。堀縁石垣背後の斜面では、石垣を確認(T3・T4)した。石材は戸室石の自然石を多用するが割面や金沢城石垣編年3期(元和年間頃)に類する石材(刻印石あり)も使用されている。
根石や根固め栗石を覆う整地土には18世紀末頃の遺物が含まれており、江戸後期に築かれた土留石垣と推定される。土留石垣はT2までは延びないことを確認した。
金沢城二ノ丸は、近世前期以降、金沢城の中枢部であり御殿が設けられていた。今回の埋蔵文化財確認調査は、遺構の遺存状況・内容等を確認し、今後の保存・活用に資することを目的として、3地点の発掘を行った。
調査にあたっては、金沢城調査研究埋蔵文化財専門委員会委員及び伝統技術(石垣)専門委員会委員の指導を受けた。
調査期間:令和2年7月2日~12月18日
調査面積:1,000平方メートル
現地指導:令和2年11月19日
現地公開:令和2年12月5日
御殿の北東部(唐門・表式台北・実検ノ間付近)にあたる。この付近は、これまで発掘調査が実施されておらず、御殿の範囲を確定する上で重要な区域である。
調査の結果、現地表から約1m下位で、明治14(1881)年の火災で廃絶した御殿の地盤(遺構面)を検出した。建物の柱を支えた礎石自体は撤去されていたが、礎石の安定を図るため堅固に作られた基礎を確認した。今回精査した範囲は、絵図との照合から、「表式台」北辺及びその北側の「広縁」北辺に対応すると考えられる。文化5年(1808)火災後の御殿再建にかかる『御造営方日並記』には、表式台や虎ノ間、竹ノ間(大広間)等において「四尺六方(幅・深さ約1.2m)」に穴を掘り、栗石を入れて搗き固め、礎石基礎としたことが記されており、検出した遺構の状況と概ね整合している。この他調査区南東では平面六角形の枡を検出した。
御殿の地盤は、廃棄された瓦等とともに埋立てられ、嵩上げされていた。埋立土の上面で旧陸軍により設けられた馬場の遺構を確認した。この他、昭和3(1928)年の馬場廃絶後に建てられた会議室のコンクリート基礎を検出した。
(イ)第2・3地点
第2地点は表向主要部と台所の境、第3地点は表向と御居間廻りの境にあたる。両地点とも石川県教育委員会・金沢大学が昭和44年度に実施した発掘調査地点の一部に相当する。
今回の調査では礎石・石室・くぐり抜け階段(第2地点)、石製樋・溜(桝)(第3地点)等の遺構を再検出し、公共座標に基づく位置情報等を取得した。
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