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・二ノ丸御殿の最終地盤面
明治14年(1881)に御殿が焼失した後の整地層と考えられる、炭混じり層や瓦を多く含む層等を検出し、御殿地盤のおおよその高さが推定できた。
二ノ丸主要部:標高48.5~49.1m前後
数寄屋屋敷(二ノ丸西部):標高45.5~45.8m前後
・近代以後の状況
近代以後の造成土の厚さについて、おおよその情報を得た(推定される遺構面まで、現地表から50~100cm程度)。また、戦後に建造された金沢大学建物の範囲は、御殿地盤の下まで大きく攪乱を受けている可能性が高まった。一方、軍隊建物による攪乱は比較的軽微であると推定された。
・二ノ丸の造成と旧地形の状況
二ノ丸の北部から東部にかけての広い範囲で、厚さ最大約9mの盛土造成により、現況の郭が形成されていることが明確になった。盛土の大部分は、寛永8年(1631)の二ノ丸普請に伴うと考えられる。
地山の検出レベルから、寛永8年以前の縄張は、二ノ丸北東部(標高40~42m前後)、二ノ丸南部(47~49m前後)、二ノ丸北西部・数寄屋屋敷(44~45m前後)の三区画に大別される可能性がある。
・二ノ丸北面石垣上面では、建造物の痕跡(出窓腕木の据付痕等)は認められなかった。
・数寄屋屋敷との境界をなす石垣では、嘉永6年(1853)の普請と推定される階段石垣の取付痕跡を確認した。
・文化5年(1808)の大火後に再建された二ノ丸御殿の内装等に関する史料等を新たに確認した。
*「二之御丸御殿御造営内装等覚及び見本・絵形」(金沢市立玉川図書館蔵)
文化8年(1811)に加賀藩御大工の井上庄右衛門がまとめた二ノ丸御殿の内外装に関する記録。仕様書1冊・唐紙等の見本1冊・飾金具図面2冊の計4冊からなる。
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