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所在地 金沢市二俣町
(二俣いやさか踊り保存会 金沢市二俣町)
〔鈴踊り〕
〔手踊り〕
県指定無形民俗文化財 平成7年10月3日指定
二俣いやさか踊りは金沢市二俣町に伝承する盆踊りである。二俣町は市の中心部から北東約12km、医王山(939m)の麓にあり、古くから紙すきの里として、また蓮如ゆかりの本泉寺の所在地として知られる。
現行の踊りは6種ある。男踊りの鈴踊り・太刀踊り・笠踊り、女踊りの手踊り・扇踊り・からかさ踊りである。名称は執り物によって名づけられ、それぞれ扮装を異にする。楽器は鈴だけで、鈴ふりの主導により本唄・返しと呼ばれる音頭取りの歌に合わせて踊るのである。
歌詞は7・7・7・5型で、医王山麓で歌われてきたイヤサカ節によって歌われ、3・4句を反復する返しがあり、明るく陽気である。男踊りは勇壮で、とくに鈴踊りには4通りの型(サカタ・シンムギ・フンガエシ・オドンボ)があって変化に富む。女踊りは扇踊りに見られるようにしなやかで優雅である。以上の6種の踊りが一つの大きな輪となり、それぞれの踊りを演じて調和するところに特色が見られる。
踊りの由来は明らかでないが、一般には寿永2年(1183)の倶利伽羅合戦の源氏にちなむ伝説が知られている。元来は秋祭りの踊りだったが盆踊りになったものである。大正の中期(1918年頃)から行われなくなっていたのを、昭和33年(1958)に二俣の青年団が古老の伝承にもとづいて可能な限り復元し、それ以来毎年8月盆の夜に本泉寺境内で行い、帰省者も加わり町をあげて盛大に伝承と発展とに努めてきた。これによって医王山麓におけるイヤサカ節による古い踊りが伝承されることになったのである。
以上のごとく二俣いやさか踊りは医王山麓を代表する古い盆踊りとして、地方的特色を有し民俗芸能として重要なものである。
所在地 珠洲市蛸島町
(蛸島早船狂言保存会、高倉彦神社 珠洲市蛸島町)
〔狂言の様子〕
〔早船・木偶〕
県指定無形民俗文化財 平成8年9月14日指定
蛸島早船狂言は珠洲市蛸島町に鎮座する高倉彦神社の秋祭(9月11日)の夜、境内の舞台において蛸島町の青年が行う地狂言である。舞台は神社の拝殿の前方にあり、その下手に長さ4.40メートルの和船(早船と称し、船名を人力丸という。桐材で総漆塗)を飾る。船は枠台に載せて船底より下に波模様の幕をめぐらし、船上には船旗(三つ柏の神社紋)を立て、船頭・とも取・水夫(かこ)の木偶を据え、さらに、チョロコと呼ばれる長さ1.66メートルの小さな伝馬船を載せる。
9月11日には本祭で神輿と16基のキリコとが町内をまわり、夜になって入り宮し、祭典後に舞台にて狂言を始める。まず口上人が舞台の前方に着坐し、神社に向かい拝礼してから早船由来口上書を読み上げる。その一節ごとに世話方が拍子木打ちをして調子をとる。読み終えると拝礼して退く。次に”土手の提灯吉原がよい”という出歌とともに船頭があらわれる。長右衛門という美男子で紋付羽織の着流し姿にて蛇の目傘をさし、遊里通いの態よろしく進み出る。傘を捨てて日の丸の扇子を開き、とも取を呼び出す。とも取は猿之助という勇み肌の男で花模様の派手な祭礼用のどてらを着る。この船頭・とも取の両者が舞台前方にならび立ち、拍子木にあわせて、手ぶり・足ぶみ掛け合い問答を続ける。その問答は芸者に熱を上げ天候にかこつけて船出を渋る船頭をとも取がやりこめて出船するという筋で、最後は”とも取れ かこ衆”で始まる入り歌にて両者が後ろ向きとなりトントンと足ぶみしつつ退場してめでたく狂言を終える。以上の45分間の熱演である。
早船狂言は近世に漁業や交易で栄えた蛸島が、当時流行の歌舞伎や歌曲を古い早船行事に取り入れて特徴のある狂言を始めたものと思われ、芸能史上すこぶる注目されるのである。また、能登地方では地狂言が広く行われたが、現在は絶えて久しい。この意味においても早船狂言はきわめて貴重であり、かつ、地方的特色の顕著なものと認められる。
所在地 小松市 京町・材木町・中町・寺町・八日市町・西町・大文字町・龍助町
(京町曳山行事保存会 小松市京町、材木町曳山行事保存会 小松市材木町、中町曳山行事保存会 小松市中町、寺町曳山行事保存会 小松市寺町、八日市町曳山行事保存会 小松市八日市町、西町曳山行事保存会 小松市西町、大文字町曳山行事保存会 小松市大文字町、龍助町曳山行事保存会 小松市龍助町)
〔子供歌舞伎の様子〕
〔曳山の様子〕
県指定無形民俗文化財 平成11年7月23日指定
莵橋(うばし)神社と本折(もとおり)日吉神社の春季例祭を「お旅まつり」といい、寛永17年(1640)、前田利常が小松を隠居地として定めて在城した頃からはじまった。
利常没後、小松は町人のまちとして発展し、その基盤の上に、近江長浜の曳山を模して曳山がつくられ、祭礼に奉納する神事の一つとして、「子供歌舞伎」が上演されるようになったのは、明和3年(1766)頃と推定される。
曳山は、初めは移動式の簡単な舞台の曳山で、17,8基あったと町奉行の記録にある。それが現在のような豪華な高楼式の曳山になったのは、寛政から文化年間(1789~1818)の時代で、10町に10基の曳山がつくられ、以来200有余年続いて今に至っている。昭和5年(1930)、7年(1932)の大火によって、2基(松任町、東町)が焼失し、現在は8基の曳山が存続している。
子供歌舞伎を上演するのは、その年の当番2町で、町内の少女を中心として数名が選出される。初日に宮参りをしてから舞台を踏み、地元の人たちによる浄瑠璃(義太夫)、三味線で熱演する。曳山は町内を移動し、千秋楽までに十数回上演される。曳山行事においては子供歌舞伎の他に、「曳山曳行(ひきやまえいこう)」も重要な要素である。曳山曳行には伝統的な曳行技術、様式、作法がある。前進、後進、廻転等特殊な技術作法を守り、継承されている。また、行事の運営・執行組織は自主・自治的に行われてきており、組織形態及び、上演に至るまでの行程も、各曳山を通じ同一であり、且つ昔から変わらず守られてきている。町内の五人衆が責任者となり、若連中が協力して運営する。
このようにお旅まつりの曳山行事は、石川県内の祭礼行事の代表的なものの一つとして重要である。
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