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正安4年(1302)
気多神社 羽咋郡志賀町字福野イ1
高さ100センチ 幅77センチ 厚さ12センチ
県指定文化財 昭和51年6月8日指定
安山岩の偏平な自然石を用材とした古碑である。碑の中央上寄りに大きく「妙法蓮華経」、その左右に12行にわたって行書体の銘が刻まれている。この碑文によれば、権律師日静が、生涯をかけて毘沙門堂谷を開発し、そこに3間2面の堂舎を建てて金色の阿弥陀仏・薬師如来・千手観音菩薩を安置して法華経を読誦したことが見えており、正安4年(1302)5月7日申時、日静の門弟阿闍梨日済が先師を偲んでこの碑を造立したことが知られる。日静について詳しく知る史料はないが、日蓮が佐渡に流謫の際に弟子となって随侍し、日蓮帰洛の後、その旧跡に妙法華山妙照寺を創建した日蓮宗の僧日静が、正安3年(1301)6月に没しており、その翌年の5月にこの碑が建てられている。日像の開山で知られる妙法輪寺(押水町)の過去帳にも「佐州一谷妙照寺開山日静上人」の名前が見え、能登と佐渡の法華宗教団の交渉がうかがわれる。「日静」と読むことについては異説もあるが、今後の研究によって能登の初期法華信仰史に与える影響の少なくない重要な歴史資料である。
昭和60年「石川の文化財」より
鎌倉時代から江戸時代
尾添区長 白山市尾添
県指定文化財 昭和54年12月19日指定
寛文8年(1668)以降、越前馬場平泉寺の支配下におかれてきた白山山頂が、明治5年(1872)に、石川県能美郡(現白山市)に帰属させられたことにより、翌々明治7年(1874)になって、石川県令内田政風は、白山山頂の神仏分離を強行し、山頂一帯の堂舎に安置されていた仏像・仏具を廃棄した。さいわい、仏像の破壊をおそれた信仰あつき白山麓18ヶ村の総代の出願により、山頂から下山させられた仏像は、牛首(白峰)林西寺と尾添村に預けられることとなり、「白山下山仏」の名で安置され、今日に至っている。尾添白山社に伝えられるものは、檜新宮に奉納されていた9体であり、木造阿弥陀如来立像(建保4年《1216》在銘)・木造地蔵菩薩立像(2躯)・銅造観音菩薩坐像(安正観音)・木造十一面観音坐像(寛永13年《1636》在銘)・銅造地蔵菩薩立像(元禄13年《1700》在銘)・銅打出不動明王立像(元禄15年《1702》在銘)・銅打出金剛童子像と小型の木造地蔵菩薩立像(5躯)、ならびに銅鐘である。神仏分離の歴史的事実を今に伝える、これら下山仏は、貴重な資料であるといえよう。
昭和60年「石川の文化財」より
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