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延宝年間(1673~1681)
石川県立図書館 金沢市本多町3-2-15
県指定文化財 平成23年12月20日指定
加賀藩による本格的な測量に基づく城下町図の作成は、正保年間(1644~1648)に幕府に提出を命じられてからとされており、その後、加賀藩の普請会所において万治3年(1660)、寛文7年(1667)、延宝年間(1673~1681)の城下町金沢の景観を描く大型絵図が作成されたことが判明している。このうち、延宝年間の城下町図が、この「延宝金沢図」である。
絵図の大きさは南北589センチメートル、東西545センチメートルと非常に大きな彩色図であり、現存する城下町図で最大となる。縮尺は一分一間の分間図であることから、600分の1とみられる。
絵図の成立年次は凡例注記をみるだけでは不明なので、正確には未詳であるが、延宝元年から2年の間に死去した藩士名について、本図への掲載の仕方を調査した結果、延宝2年の屋敷利用の現況を記載していたことがわかった。
「寛文七年金沢図」と記載様式を比較して、測量線である朱線が省略されていること、惣構の線が浅黄色から黒色に変わり、より鮮明となっているなど相違点はあるものの、城内は彩色せず、ごく簡単に縄張りを示すだけで、藩士、町人地、寺社などの配置に主眼が置かれた点は共通していることから、作成目的は「寛文七年金沢図」と同様、藩主から城下に拝領地を得た人々の屋敷位置を明確に示すことであるとわかる。さらに両絵図の記載内容を比較すると、惣構内部は主に重臣の居住区であるため変化は少ないが、惣構の外では、与力町の形成、城下町の外延的拡大のほか地子町の急増、地種の変化など、約7年間の城下町の変化を読み取ることができ、貴重な城下町研究資料といえる。
また、この絵図の写は江戸後期から大正年間にかけて4点作成されており、早くから郷土史研究において注目され、広く利用されたこともこの史料の重要性を示す。
「延宝金沢図」は、「寛文七年金沢図」とともに江戸前期における金沢城下の都市政策の流れを知ることができる貴重な絵図であり、また長期にわたって郷土史研究に影響を与えてきた一次的な史料でもあり、有形文化財として指定し、その保存を図ることが必要である。
戦国時代末期~大正時代
石川県立歴史博物館 金沢市出羽町3-1
県指定文化財 平成27年2月3日指定
上木家は越前府中(現在の福井県越前市)の出身で、関ヶ原の戦いでは前田利長に仕え、その後、知行千石を有する加賀藩士家となり、普請奉行など各奉行を務めた。また、加賀藩祖・前田利家の側室で、三代利常の生母である千世(寿福院)の実父である上木新兵衛に連なると考えられる。
本文書は、上木家に伝来する354点の資料からなっており、戦国時代末期から大正時代のものが含まれている。加賀藩士家の基本的な文書である「知行宛行状」、「先祖由緒一類附帳」、「系図帳」などが揃っているほか、縁組や勤仕に関する資料、香道を含む学芸の資料も含まれている。藩政の実務を担った藩士家の詳細が伺え、加賀藩の職制や武家社会の様相、社会生活を研究するうえで格好の資料であり、学術的価値が高い。
また、利常から上木家に宛てた「かな書状」や二代藩主・利長の書状、「豊臣秀吉朱印状」、18世紀末から19世紀初頭にかけての上木家屋敷図など、類例が少ない資料が含まれており貴重である。
「辰巳上水江筋之絵図」は、幅15.0センチ、長さ708.0センチの細い和紙を貼り継いだ絵図で、取水口から兼六園までが描かれている。図中には貼り込みなどが随所に行われ、寛政地震(寛政11年=1799年)前後の様子が書き入れられており、現認される絵巻の中で最も古い情報を持つものとみられ、辰巳用水研究に役立つと考えられる。
本資料は加賀藩士で知行千石を有し、藩政の実務に携わった家の文書であり、また、藩主生母の実家関連の資料という点で価値が高く、有形文化財として指定し、その保存を図ることが必要である。
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