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室町時代後期 天文4年(1535)
金沢市出羽町3の1 石川県立歴史博物館
県指定古文書 平成20年4月30日指定
後奈良天皇が、弟の尊鎮法親王にあてた宸翰の女房奉書である。本紙・礼紙の2枚の和紙に草書体の仮名書きで散らし書きしている。内容は、京都の公家勧修寺尹豊がその所領であった加賀国河北郡の井家荘を確保するため、京都の家屋敷を売却し、加賀へ移住しようとしたことを非難し、朝廷の職務に専念するよう求めたものである。
宛所の尊鎮法親王は後奈良天皇の実弟で、母は尹豊の曾祖父教秀の娘豊楽門院藤原藤子であった。また、藤子の姉妹は松岡寺蓮綱の室であった。これらにより尊鎮法親王が、勧修寺家と姻戚関係にあったこと、および加賀国を実質的に支配する一向一揆を統制していた本願寺に強い影響力を持つ青蓮院門跡であったことなどから、後奈良天皇は尊鎮法親王を通して、尹豊の加賀下向を阻止しようとしたものである。
井家荘は、現在の津幡町南部、金沢市森本地区、内灘町全域に比定され、勧修寺家の所領(領家職)であったが、南北朝時代に足利義満が井家荘の年貢半分を二条良基に臨時に分与したことが遠因となって、二条家と勧修寺家の間で係争が続いていた。勧修寺家では所領を確保するため、尹豊の祖父政顕の代から加賀に下って直務支配を行うようになり、享禄以降再三にわたって本願寺証如に領地回復を依頼したが不調であった。尹豊もまた加賀へ下向しようとしたが、この女房奉書が大きな要因となったためか、思いとどまった。その後の井家荘支配は、二条家が優位に立つことになった。
本史料は、井家荘をめぐる勧修寺・二条家の相論と、天皇家・本願寺の動向が絡む貴重な史料であり、有形文化財として指定し、その保存を図ることが必要である。
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