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更新日:2016年8月16日

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畠山義総関係文書・織田信長朱印状

畠山義総関係文書 (10通)

室町時代後期(天文5年前後)
金沢市出羽町3の1  石川県立歴史博物館

 

県指定古文書  平成20年4月30日指定


山義総(1491から1545)は、能登守護畠山氏の第七代当主である。永正12年(1515)に家督を継ぎ、以後、30年の統治で能登畠山氏の安定をもたらした。また、この時代は応仁の乱が起こり、その戦乱を避けた貴族たちが、地方の有力者を頼って下向したことが知られており、畠山氏の元へは冷泉為広・為和父子などが訪れ、能登畠山文化の最盛期でもあった。
史料は、10通の書状から成り、1枚の和紙を横方向に半切れした細長い紙に書かれている。 内訳は、「義総」と書いて花押を記したものが4通、「悳胤(義総が隠居後に名乗った号)」と書いて黒印を捺したものが5通、「景高」と書いて花押を記したものが1通の計10通である。「景高」は、越前朝倉氏の第九代当主朝倉貞景の二男である。これらの書状は三条西家に渡った後、紙背文書として後世に伝来したものである。
総は三条西実隆(1455から1537)との交流を持ち、「源氏物語」の講義を受けたことなどが知られていた。この書状の中にも「逍遥院(実隆の院号)」の源氏物語の講釈のことが述べられ、「弘安源氏論議」「史記」「伊勢物語」などの借用を依頼していることがあり、中央文化の地方への流入・伝播を直接示す史料である。
た、義総の書状の9通のうち4通が「義総」と書いて花押を記し、5通が「悳胤」と書いて黒印を捺しており、義総の書跡を探るうえでも貴重な史料である。  この時代は能登畠山文化の最盛期でもあるが、この時期の史料は極めて少なく、写しや記録以外の直接的なものは皆無に等しい状況であり、本史料は、本県の中世史、とりわけ地方文化の実状を描き出す格好の史料であり、有形文化財として指定し、その保存を図ることが必要である。

 

 織田信長朱印状 (1点)

安土桃山時代  天正7年(1579)
金沢市出羽町3の1  石川県立歴史博物館

 


県指定古文書  平成20年4月30日指定


田信長の朱印状で、宛所は長九郎左衛門尉(長連龍)となっている。和紙の半切れに書かれ、馬蹄形の「天下布武」の朱印が捺されている。内容は、織田信長が長連龍に対して七尾を中心とする能登の統治を認めたものと見られ、天正7年(1579)と推定されている。
時の能登は、天正5年(1577)9月に、上杉謙信によって国主であった畠山氏が滅ぼされ、七尾城に籠った反上杉の家臣団も、落城とともにその運命をともにし、長氏では、当主続連、嫡子綱連ら一族のほとんどが滅ぼされた。三男の連龍は、仏門に帰依し池崎孝恩寺(七尾市)にあったが、上杉侵攻の際は援軍を求めに安土へ行っていて生き延びた。翌天正6年(1578)に上杉謙信が急逝すると、旧畠山家臣団の動きが活発化し、同年八月、連龍は安土から能登へ帰り、穴水城を奪取した。しかし、反撃を受け守りきれず、越中守山の神保氏張の下へ脱出し、信長の援助を願った。
史料は、そのあとに位置づけられるもので、還俗を果たした連龍に対し、援軍に出兵する意思と連龍自身の兵力充実を命じ、上杉の影響力が薄れた能登に対し、連龍の存在を保証したものと考えられる。
史料は、七尾落城から長家が復興し、鹿島半郡を領有するにいたる能登の歴史を語る貴重な史料の一つであり、有形文化財として指定し、その保存を図ることが必要である。

 

お問い合わせ

所属課:教育委員会文化財課 

石川県金沢市鞍月1丁目1番地

電話番号:076-225-1841

ファクス番号:076-225-1843

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