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本事業は、金沢城に関する庭園の構造・機能及びその変遷等について、学際的・総合的に検討することにより、金沢城の特質を一層明確にし、併せて城郭の構成要素としての庭園の意義の解明に資することを目的とする。平成29年度は、兼六園の現況補足調査や造園史の専門家等による検討会を実施するとともに、これまでの調査成果を報告書にとりまとめた。
平成29年度より、庭園の構成要素の一つである切石積石垣の確認調査に着手した。本事業は、埋没している初期の切石積石垣を発掘して、出現期の実態(場所・意匠・技術等)を明らかにし、外観や意匠を重視した「見せる石垣」が生み出された技術的・社会的背景を探ることを目的とする。
平成29 年度は数寄屋屋敷北調査区(雛土蔵下石垣・数寄屋屋敷北石垣)を対象に調査を実施した。これらの石垣については、従来、17世紀後半の様式として評価してきたが、空堀に面している埋没部分に、より古い痕跡が認められるかどうか確認するため、発掘調査を行った。
調査期間:平成29年6月19日~8月31日 調査面積:20平方メートル
・数寄屋屋敷北側の空堀に面し、入角部を構成する雛土蔵下石垣(上部布築積・下部四方積)・数寄屋屋敷北石垣(金場取残し積)の基礎部を確認した。
・雛土蔵下石垣は、最下部の根石から天端に至るまで、厳密な規格性を有した石垣であることがわかった。金沢城石垣の特徴である「見せる石垣」には、入念な設計に裏打ちされたタイプがあることが明確になった。
・雛土蔵下石垣と数寄屋屋敷北石垣は、根石構築の順序や、その前面を抑える整地土の状況等から、一体的に構築されていることが明らかとなった。 様式の異なる二つの石垣を際立たせるよう、意図されたものと考えられる。
・数寄屋屋敷北石垣の下部では、数寄屋屋敷東側の堀と連絡すると推定される樋門を検出した。また樋門の北側ではこれに連続する石組溝も確認した。これらの廃絶については、出土遺物から17世紀末頃と考えられる。
・両石垣とも、露呈していた部分と基礎部との間に改修は認められず、基礎部に古い特徴が残る状況ではなかった。石垣の構築年代は、17世紀半ばから後半の間と考えられ、最初期のものとは考え難いが、出現期から展開期への様相、また庭園とその周辺への切石積石垣の採用等を探る上で、重要な所見を得た。
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