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鎌倉時代後期
須須神社 珠洲市三崎町寺家ツ-56
像高 56.7センチ~(現状)48.0センチ 膝張 35.0センチ~30.0センチ
膝奥(現状)14.0センチ~11.7センチ
重要文化財 昭和25年8月29日指定
この5躯の男神像は、檜材、一木造、彫眼。頭部に巾子冠を頂き、袍衣に身を包み、胸前に手をこまねいて坐するもので、手の上あるいは下辺から膝部を矧ぐが、膝部の矧木は全て欠失している。本来は彩色されていたものであるが、痕跡がわずかに残るのみで、ほとんど剥落している。正面を向くものと、左斜あるいは右斜を向くものとがあり、加えて頤に髯を彫り出すものと、髯の無いものとがある。このように面貌などに多少の相違はあるが、寸法・形状などから、これらは一群の神像と見なされ、鎌倉時代後期の制作になるものと考えられる。
なお、須須神社は、通称「三崎権現」、「三崎明神」と称して仰がれ、高座宮と金分宮との総称であるが、元来は高座宮で、金分宮は後世に合祀されたようである。延喜式内の古社である。
昭和60年「石川県の文化財」より
鎌倉時代後半
松岡寺 鳳珠郡能登町松波3-80
像高 152.0センチ
重要文化財 平成5年6月10日指定
この像は、桧材、寄木造り、玉眼嵌入、白地彩色で、聖徳太子16才の、いわゆる孝養像(親に孝行する姿像ー手に香炉を持ち父用明天皇の病気の快癒を祈っている)の大型遺品である。明治2年(1869)、神仏分離に伴い、奈良興福寺勧修坊より当時に移安された。美豆良で覆われる耳までを入念に彫り上げている。切金をまじえた彩色文様に当時の南都系絵仏師の特色がうかがわれる。様式から製作年代は13世紀後半(鎌倉時代後半)とみられ、奈良の仏師の作と思われる。太子孝養像遺品中の優作として注目され、この時期のもので、当初の彩色を鮮やかに見事な状態で残しているのは極めて稀である。
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