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慶長7年(1602)に金沢城の天守が雷火により焼失したという記録があるので、天守があったことは確かです。創建は、天正14~15年頃とみる説が有力です。したがって、金沢城天守は、1587年から1602年までの間、城のシンボルとして本丸に聳えていたことは間違いなさそうです。ただ、天守の外観や構造はわかりません。
慶長7年に天守が焼失した後、三階櫓が建てられます。三階櫓は、天守の代わりをしたと言われますが、寛永8年(1631)に焼失しました。この時はすぐに再建されましたが、130年後の宝暦の火災で再び焼失すると、以後再建されませんでした。寛永から宝暦まで本丸に建っていた三階櫓は、外観3階内部5階の建物で、最上階には高欄をめぐらしていたと言われています。
江戸時代の城内には、Q3-1で答えた天守のほか、多くの櫓(長屋)や城門、御殿、東照宮、役所、蔵などの様々な建造物が建っていました。金沢城は、1631年、1759年、1808年に大きな火事に遭っており、その度に建造物は姿を変えました。下の図は、金沢城の主な建造物の移り変わりを示したものです。
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