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金沢城の石垣の石は、初期には河原石なども用いられていますが、文禄元年(1592)からはじまったといわれる石垣普請のときから、城の東8キロの所にある戸室山山麓から掘り出した戸室石が使われています。戸室山の西側の城に近い地域で採石がまずはじまり、やがてキゴ山放牧場の周辺で盛んに採石し、万治から寛文(1658~60)には戸室中山村に約4000もの石が集積されていたといいます。そののち100年間は、新たに石を切り出す必要はなかったようです。江戸中期になって再び戸室での採石が再開されると、地車を用いて石を運び、効率が良くなったということです。
金沢城の石垣は、穴生(あのう:穴太とも書く)と呼ばれる専門職人によって作られました。穴生とは、近江国穴太村出身の石工のことですが、信長や秀吉に出仕し、石垣作りに功績をあげ有名になってからは、出身地に関係なく石垣作りの職人を「穴生」と呼ぶようになりました。前田家も、早くから穴生衆を召し抱えており、天正15年(1587)に利家が召し抱えた穴生源助が、加賀の穴生の最初です。江戸前期より数名の穴生衆が普請奉行の下に置かれ、城の石垣修理や維持管理につとめました。穴生の下に「扶持人石切」「二十人石切」という石垣専門の足軽や小者が置かれ、穴生の手足となって働きました。むろん、大がかりな石垣工事や石引き作業には武家奉公人・日雇人足などが何百人も動員されました。
金沢城公園内に「石垣めぐり」の散策ルートと掲示板がありますので、案内板に従って往時の石垣作りの苦労を偲んでください。
金沢城には、石材の加工状況が異なる「自然石積」、「割石積」、「粗加工石積」、「切石積」の4つの石積み様式がみられます。これらの石垣は創建年代の違いを示すと共に、例えば、城の外周には自然石積や割石積などの高石垣、藩主の御殿や庭園周りにはデザイン性に富んだ切石積の石垣群を築くなど、場の性質や格式に応じた使い分けが認められます。このように多様性や意匠性が金沢城の石垣の大きな特色です。
また、文献史料や、石切丁場など、石垣に関する多種多様な資料が数多く残されていることも特色の一つにあげられています。
これらのことから、金沢城は「石垣の博物館」と呼ばれています。
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