ホーム > くらし・環境 > 公共事業 > 技術・品質管理 > 石川の伝統的建造技術―石川の工匠― > 左官工事
ここから本文です。
古代、私たち日本人が外界の厳しい気象条件との緩衝帯として作った最初の構造物、それは竪穴式住居でした。その後、穀物等の貯蔵の必要性から高床式住居が現れ、壁が必要となりました。最初の壁は、その文字が「辟に土」とあるように、土で作ったものだったでしょう。日本人と左官との長いつき合いの始まりです。
左官工事が飛躍的に発達したのは、近世城郭建築によるところが大でした。江戸時代、慶長6年から14年(1601年から1609年)にかけて建築された姫路城は、白漆喰の総塗籠式により、その白亜のイメージから白鷺城と称されています。そこには、高い意匠性と、防火性、耐久性、また権威象徴性が現れています。そして、この城郭に用いられた技術は、商業の発達に伴って建築されるようになった土蔵に対し、防火性を高めるために用いられ、一般化して行きました。
一方、千利休によって大成された茶室では、白漆喰の城郭とは異なった左官文化を華開かせ、武家や豪商の邸宅に広まり、一般化して行きました。
江戸期、技術的に確立された漆喰塗りが、その後、意匠性を強めていったのは想像に難くありません。華麗な漆喰彫刻や、金沢城石川門にもみられる平板瓦の鼠色と白漆喰目地のコントラストが美しい海鼠壁が現れました。
明治以降、我が国に導入された西洋建築技術を吸収し、左官技術は発達を続けました。現在では、自然に還る有機材料を使用する環境負荷の少ない工法として、また、呼吸する、つまり調湿作用がある材料であり人間にやさしい仕上げとして、注目されています。
菱櫓等復元工事では現在、下層階より順次荒壁塗が行われています。使用する壁土は寝かしておく期間が必要なので、以前から準備してあります。
「壁土は地域ごとに、山土、田畑床土、川畔などより採取されて使用されている」(左官施工法 社団法人日本左官業組合連合会発行)とあるように、特に地域にはこだわらないようです(仕上げ塗り材は別)。当地では、昔からこのコンサートホール現場がある金沢駅西地方の土を「西念の青ネバ」と呼んで、荒壁土として使用してきました。「ネバ」は粘りけのネバでしょうか。
なお、兼六園東側に「土取場」の地名がありましたが、築城のための土取場かは定かではありません。
荒壁土は有機物やあく等不純物を含まないものが良質とされます。
壁土1立米に対し、藁すさを20kg、及び山砂を10%混合しました。混合割合は土の粘性によって調整します。(参考:石川門昭和の修理では、古土に40%の新土を補い、使用前30日間に数回切り返したものを使用したとありました。)
荒壁用藁すさには、藁を2寸に切ったものを用いました。すさを混入する目的は「すさに含む水分により塗り付けの際の保水性が得られ、むらもとり易く、塗り付けるときの脱落を防ぎ、乾燥に伴う収縮、亀裂を少なくする」(前出左官施工法)ことです。寝かした後、施工する際、粘りけが少なければ、そこでまたすさを足すこともあります。
土、すさ、砂、水を混練りし、水張りし寝かします。途中、切り返しを行い、すさの発酵を促進させます。
荒壁の試験です。こちらは、左官職の経験にたよる試験で、団子にねり、固さ柔らかさ、その後の乾燥収縮の程度を見ます。コンクリートのスランプ相当するでしょうか、床に置かれた団子の底面の直径等を見て柔らかさ等を判断するようです。
お問い合わせ
より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください
同じ分類から探す