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畠山義総(1491~1545)は、能登守護畠山氏の第七代当主である。永正12年(1515)に家督を継ぎ、以後、30年の統治で能登畠山氏の安定をもたらした。また、この時代は応仁の乱が起こり、その戦乱を避けた貴族たちが、地方の有力者を頼って下向したことが知られており、畠山氏の元へは冷泉為広・為和父子などが訪れ、能登畠山文化の最盛期でもあった。
本史料は、10通の書状から成り、1枚の和紙を横方向に半切れした細長い紙に書かれている。内訳は、「義総」と書いて花押を記したものが4通、「悳胤(義総が隠居後に名乗った号)」と書いて黒印を捺したものが5通、「景高」と書いて花押を記したものが1通の計10通である。「景高」は、越前朝倉氏の第九代当主朝倉貞景の二男である。これらの書状は三条西家に渡った後、紙背文書として後世に伝来したものである。
義総は三条西実隆(1455~1537)との交流を持ち、「源氏物語」の講義を受けたことなどが知られていた。この書状の中にも「逍遥院(実隆の院号)」の源氏物語の講釈のことが述べられ、「弘安源氏論議」「史記」「伊勢物語」などの借用を依頼していることがあり、中央文化の地方への流入・伝播を直接示す史料である。
また、義総の書状の9通のうち4通が「義総」と書いて花押を記し、5通が「悳胤」と書いて黒印を捺しており、義総の書跡を探るうえでも貴重な史料である。
この時代は能登畠山文化の最盛期でもあるが、この時期の史料は極めて少なく、写しや記録以外の直接的なものは皆無に等しい状況であり、本史料は、本県の中世史、とりわけ地方文化の実状を描き出す格好の史料であり、有形文化財として指定し、その保存を図ることが必要である。
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